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<罪状>
高校卒業後定職につかずフラフラしていた彼女は、ある夜コンビニで化粧品を万引きし、それを見つけて追いすがる店員から逃れようとナイフで刺してしまった。店員は間もなく死亡し、彼女は逮捕されたが、裁判では「逃げようとして思わず刺した、殺すつもりはなかった」と主張した。
「何をバカなことを」「ナイフで刺せばある確率で死ぬこともあるのはわかりきってるじゃないか」「身勝手な言い分にもほどがある」だれもがそう思ったが、驚いたことに判決は「店員を殺害しようという明確な殺意はなかった」として殺人罪ではなく傷害致死となった。殺人罪でなければ死刑はおろか懲役20年にもならない。「結果的に死ぬ可能性が客観的に認められる行為を故意に行って他者を死に至らしめた」・・・司法の世界ではこれを「人殺し」とは言わないらしい。六法全書は覚えていても、国語の成績はかなり悪そうだ。
裁判所というのはまるで神様気取りなのか、いまだに「殺意」とか「悪意」とか、神様しか知りえない犯罪者の心の中身を刑罰の対象とし、客観的な出来事、結果、被害者や遺族の感情にほとんど目をむけようとしていない。だれもが「そんな事すれば死なせてしまう」とわかっている行為でも、加害者だけが「そのつもりはなかった」のであれば殺人罪を適用しない・・・なぜそこまで犯罪者に贔屓する必要があるのか?
こういった事例は無数にあり、国民一般の司法に対する不満と怒りは年々高まりを見せている。そこで近々導入されるのが「裁判員制度」だが、これこそまさにKY(空気読めない)的な現在の司法関係者の愚かさを象徴しているように見える。
国民は何に怒っているのか? それは有罪・無罪の判断よりも、大部分は量刑の客観的な妥当性だ。しかし裁判員制度ではアメリカの陪審員制度と同じく、無罪か有罪かの判断に一般市民が加わるというのが基本で、それが何罪で懲役何年を科するべきか・・・といった判断については、実質的には「前例踏襲」と「法律判断」の専門家である従来からの裁判官にゆだねられるようだ。
「故意に人を死なせておいて、なんでこんな人間が死刑にならないのか!」そんな素朴な国民の怒りには、裁判員制度はいっこうに答えようとはしていない。もちろん有罪か無罪かも重要な場合があるが、むしろ問題は有罪とされたあとの刑罰のあまりの「軽さ」だ。遺族のみならず、国民一般の処罰感覚に比べて、あまりにも軽すぎて、犯罪奨励にさえ見える・・・それがもはや社会問題化していることを、司法関係者は認識していないんだろうか?
「裁判所の判断がそんなに気に入らないんなら、お前ら自分でやってみろよ」・・・自分のやるべき責任を放棄して、市民に放り投げた・・・それが裁判員制度の実態に見えてならない。国民の希望は、有罪無罪の判断に参加することではなく、納得のいく量刑判断と法律判断の見直しを、税金から給料をもらっている司法のプロたちに、その自身の責任と能力においてきちっとやってもらいたいということなのに、それに対する答えが「自分たちにはできない。文句あるならあんたらも参加してみろ。どれだけむずかしいかわかるはずさ。ふふふ」では、たまったものではない。だいたい、これまで裁判官のやっていた仕事を一般から強制参加させられる裁判員にも手伝わせるのであれば、裁判員たちにとっては「税金の二重払い」だし、裁判官たちは、その分自分の給与を返上して裁判員たちに支払うべきではないのだろうか?
裁判所には、「犯罪者に愛され、国民に嫌われる裁判所」よりも「犯罪者に嫌われ、国民に愛される裁判所」になってほしいものである。
<責め>
話が裁判員制度の方に脱線しているちにも、当の彼女はほどなくこの監獄に収容され、その犯した罪に相応しい罰を受けることになる。
身勝手な理由で、なんの落ち度もない店員を刺し殺した罪は大きい。人を許し、反省を促すことは大切だが、しかし許されることと絶対に許さないことが世の中にはあるのだ。失われた命は絶対に戻らない。反省したからといって、とりかえしがつくものではないのだ。
「もう許してぇ!お願いです。心から反省します!一生遺族の方のために働きます!」
しかしその言葉が本当か嘘かなどだれにも証明できない。そしてもし本当であったとしても、失われた命は絶対に戻らない。
スクール水着・ベルト緊縛・巨根拡張・騎乗位陵辱・・・絶叫は、彼女が息絶えるまで地下牢に響き続ける。
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